社伝では、軽里西方の伊岐谷(いきだに)に創建され「伊岐宮(いきのみや)」と呼ばれていました。 その後、南北朝や戦国時代の兵火を受け次第に荒れ果て、峯ヶ塚古墳の墳頂に移され小さな 祠として祀れていましたが、慶長の大地震で倒壊してしまいました。しかし江戸時代の寛永末期(1640年頃)に村人たちによって現在の地に移転され、日本武尊と 素戔鳴命(すさのおのみこと)を祭神とする古市の氏神となったものでありますが、素戔鳴命については西琳寺の 鎮守であった渡来系の神の「午頭天王(ごずてんのう)」と合祀されています。秋には、だんじりが町内をめぐり、大変にぎわいます。